正直なところ、そんな意識もしてなかったって言うのにね。
とてもそれじゃ誤魔化しきれない程、
彼は私の思考に陣取ってしまうことになった。










指先にキス










実は、ちょっぴり後悔してる真っ最中。
目の前には、不機嫌そうに眉間に皺を寄せた柳。
その不機嫌度は…そう、例えばあの真田もビックリするほどのものだ。

…冷静な参謀がそんな顔しちゃ駄目でしょ、ちょっと。

そんなことを思いながらも口には出来ない。
それも当たり前のこと、柳の不機嫌の理由は間違いなく私だ。

目の前に乱雑に広げられた大量のプリント。
ほぼ白紙だったそれらは、多少進んだとはいえまだまだ空欄だらけ。
半ば強引に家に連れてきて、教えてと言い出したのはこっちだけど
それなのに全く課題を理解しない私に、いい加減切れ気味なのだ。

「そのまま解き進めても、3行先で詰まる可能性97.5%だ」

もうちょっと優しく教えてくれないかな!と、
その冷徹なまでに淡白な言葉に突っ込みたくなるが、
流石にここまで手を煩わせた後に
そんな大口を叩けるほど私は常識知らずじゃない。

「同じ問題形式のものがこれで6問目だ。前の問いを参考に…
 ほら、早く取り掛かれ。先程から一問たりとも進んでいないぞ」

バラバラのプリントをかき集めて几帳面に揃えながら、
柳はあきれ返ったように溜息を吐き、一枚プリントを取って寄越した。
あ、確かに見覚えのある問題だ、こうやって見ると。
けれども普段から酷使しないよう極力最小限の働きしかしなかった脳は
右手に握ったシャーペンを投げ出すようにと命令を下した。

「うぅ…だって、もー集中できない…」

休憩したい…と弱々しく呟いてみる。…説教されるかな。
けれど、予想に反して沈黙が訪れ、
ちらりと時計を伺った柳もまた、机にペンを下ろした。

「…このままでは、今日中に終わらせるのは不可能だな」
「ご…ごめん、なさい…」
「仕方ない。少し休憩するぞ」

言われるや否や、だらしなく私は机の上に突っ伏した。
本当なら、態々家に来てくれた柳には茶の一つでも出すべきだろうけど
私にしては長く集中しすぎで、そんな気力すらも既にない。

「手、痛い…」

解らなくてイライラしながらシャーペンを握り締めていた右手の中指は
ペンだこ…には程遠いが、擦れて真っ赤に腫れてしまっている。
シャーペンが合ってないのかなあ、なんてぼんやり思いながらそこを摩っていると
横からひょいとその手を取り上げられた。

とてもテニスをやってるとは思えないほど、女の私から見ても綺麗な手が
気がついたときには指を絡みつけるようにして私の手に重ねられていた。

「何?」

本来なら何やってんの突然!って、大声を出すところだろうけど、
疲れ切ってた私はそれすら億劫で、とりあえず柳の表情を読もうと少し顔を上げた。
…まあ、柳の表情が読めたことなんて今までないけど。

「普段からやってないからこうなるんだ」

厳しい言葉とは裏腹に、絡められた指が優しく中指を撫でる。
自分より幾分か冷たい柳の指は心地よい。
自分の中指と、柳の顔とを見比べていたら、唐突にふっと柳が笑った。
あまりにもその笑顔が綺麗で、見惚れたように呆けていると、

ちゅ。

「!!!?」

手を引く間もなく、柳は何を思ったか私の中指に口付ける。
声もなく驚いた私をチラリと伺ったかと思うと
ザラリとした感覚が腫れた中指をなぞった。

「ちょ、ちょちょちょっと何してるの!!?」
「痛いんだろう?」
「そ、そうだけ…どっ!」

物凄くリアルな感触は、柳の舌だ。
我に返った私は必死に手を振りほどこうとするけれど、
それを難なく押さえつけて意地悪く笑った柳は
慌てる私を全く気にせずにぱくりと指を咥えてしまった。

「や、ちょっと…っくすぐった…!」

指の形を確かめるように指先の輪郭を辿った柳の舌は
今度はチロチロと爪の先を舐めた。
いつの間にかぎゅっと閉じていた目をうっすらと開けると
熱を孕んだ柳の瞳が映った。

ドクン。

射すくめるような視線に突然羞恥が押し寄せる。
途端、柳の舌が中指の根元まで這い、
熱いのか冷たいのか解らないその感覚にぞくりとした。

「あ…ふっ」
「どうした?」

思わず漏れた妙な声がさらに羞恥を煽り、もう泣きそうなほどなのに
そうさせた当の本人はいつも通りの涼しげな顔。
パッと手を開放され、慌てて自分の元に取り返すと
可笑しそうに柳に笑われてしまった。

「痛みは引いたか?」

あくまでその為の行為だと暗に念を押す柳はこれ以上ないほど楽しそう。
ドキドキとやかましい心臓は柳を意識している証拠で
何の考えもなく誰もいない家に連れ込んでしまったことに、今更ながらに慌ててしまった。

オロオロと言葉もなくうろたえる私をどう思ったのか
柳は再び私の右手を捕まえてキスをする。
今度は先程とは違い軽く唇が触れただけなのに
何故かビクリと痺れが走り、自分でも驚いてしまう。

「い、痛くない、もう痛くないよっ」

必死に言い募るともう一度だけ軽く舌を這わせて
余裕の表情を崩さないまま、また綺麗に柳は笑う。

…って言うか、さっきまで不機嫌だったのに。
もしや、苛々が募ったから私に嫌がらせして発散?
なんてタチの悪い!!

「それならもう勉強を再開しても平気だな」
「え、もう!?」

まだ5分しか経ってないよ!
そういう意味で抗議の声を上げたつもりなのに
柳は、…絶対解ってるくせに、違った方向にその言葉を取った。

「何だ、物足りないのか」
「は?…な、何が!?」

思わず声を張り上げるも、柳は全く表情を崩さない。
計算されたとおりの動きをもって、再びシャーペンを握らされる。

「ほら、早く取り掛かれ。とにかく先に済ませるべきことがあるだろう」
「うん…って“先に”って!?」
「望みには後から答える、という意味だ」

何も望んでなんかいない!!…とは、言えない。
悔しいかな、柳が突然格好良く見えてドキドキする。

「何で…そんな、自信満々に言い切っちゃってるかなあ…」
「間違っていないだろう」
「…柳って、タラシだよね結構」

タラシって言うか、手が早いって言うか、もう兎に角!
無性に胸が一杯になって、
これでからかわれただけだったらどうしようとか思ってたら、

相手にだけは、な」

柳は否定もせず、人の心臓をさらに走らせるようなことをサラリと口にした。
私を見る目が酷く優しいことに漸く気がついて、暗に告げられた好意に目を見開く。

それって、それって、そういうこと?
言葉にできずに視線で訴えると、柳は少しだけ意地悪く笑って

「続きを聞きたければ、まずは課題からだ」

そういって、トントン、とプリントを叩いた。












実は課題なんてとっとと終わらせて口説きたかったのに全然進まなくてお預け食らって苛付いてた柳。